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破壊の神様


幼稚園に入園したての日曜日、地元では有名な桜の名所に両親、兄達と花見に出かけた。

花見に夢中になっている両親達と比べ桜になど興味のなかった私は、別のものに関心を抱き、ひとりだけ道向こうに行ってしまったらしい。

自分がひとりであることに気付いた私は、急に寂しくなり、駆け足で道路を横断し、家族の元に戻ろうとした途中、無免許運転の軽トラックにはね飛ばされた。

現在も鼻の下には1cm程の縫い傷がある。鏡に向かっている時に、その傷を意識することは殆どない。時折「その傷、どうしたの?」と人から指摘された際に、傷の存在と親から聞かされた事故の話を思い出すくらいである。

ところが最近になり、その事故は私が想像していた以上に、私に影響を与えていたのかもしれないと感じるようになった。

その影響は、私の対人関係パターンにおいて、どのような団体に属していてもどことなく覚える孤独感と、人との繋がりを求めることに対する漠とした恐怖感という形で表れていた。

私自身、自分にそのような傾向があることはわかっていたが、以前はその団体に所属する人達、あるいは繋がりを求める相手から裏切られることを恐れ、あらかじめ適度な距離を置いているのだと分析していた。

しかし、私が恐れているのは「その人達」ではなく、私が関係を築こうと必死になればなるほど、その関係を引き裂こうとする「力」なのだということに最近気付いた。

その力は、はじめ「軽トラック」という形をとって私の目の前に現れた。そしてその後も、私の人との繋がりを求める「一生懸命さ」は、様々な想定外の出来事によって打ち崩されていった。しかし、そのような力の存在に気付かない私は、その都度相手を責め、そして自ら心を閉ざしていった。

「力」の存在に気付いてからの私は、人との関わりにおいて以前ほどのガツガツさは薄れた。「残念ながら、私はどうやら”破壊の神様”のお気に入りらしい。」と思うことにした。人との関わりでどことなく気まずい雰囲気を感じたときには、そこに「破壊の神様」が降りてきていると考えるようにした。そう捉えると、以前ほどは焦ってその関係を改善させようと我を忘れることはなくなった。そして段々と、「破壊の神様」は、関係そのものを破壊しようとしているのではなく、関係のありかたを破壊しようとしているのでは、と考えるようになった。

患者さんとの面接の席では、何となく気まずい雰囲気が場を支配する時に「今、”破壊の神様”が降りてきている感じがしません?」と切り出し、今、この場の関係で起きていることについて冷静に話し合う機会が多くなった。その結果、今までの膠着していた関係に動きが生じ、その患者さんと初めて出会った時のような、新鮮な感覚が甦ってくることが増えた。

「破壊の神様」を意識し受け入れることによって、時に「破壊の神様」は、より良い関係を生み出す「創造の神様」に変わってくれることもあるようだ。
by nakaizumi-mc | 2007-05-19 23:22 | お気に入りエッセイ
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