治療に役立つ「共感」


医療従事者をはじめ、人を援助することを職業にするものにとって、「共感」という概念は「理屈ぬきで正しいこと」「心がけることが当たり前のこと」と位置づけられている。スローガン化・正論化した「共感」に対して「なぜ共感は良いことなのですか?」「どうすれば共感できるのですか?」という問いが投げかけられることはない。そのような問いを発した者は「共感能力がない」と非難・嘲笑の的になることだろう。

しかし「共感」について正しい理解を持つ者はどれほどいるのだろうか。

「先生、お腹が痛くて辛いんです!」
「(突然お腹を押さえ)君の話を聞いていたら、私のお腹も痛くなってきたよ」

「先生、お腹が痛くて辛いんです!」
「(カルテにペンを走らせつつぶっきらぼうに)それは辛いだろうね」

どちらも「共感している」と捉えることもできるが、患者さんは「共感してもらえた」とは思わないだろう。

「共感」という概念は、その響きの良さから様々な領域に侵出したため、その輪郭が曖昧になってしまった。「治療の道具」として復権してもらうために、曖昧になってしまった「共感」を「①基礎としての共感」「②能力としての共感」「③姿勢としての共感」「④治療的変化としての共感」と4つに分けることが多少なりとも役立ちそうだと思ったので、ここで紹介してみたいと思う。



①基礎としての共感
生理痛の苦しみは男性にはわからない。その苦しみを男性が「共感」することは一生できない。ある病になった者は、同じ病を持つ人の苦しみを、その病になったことのない人よりは「共感」できる。このように性別や生活背景、文化的背景によって、共有される情報の程度には差が生じる。「基礎としての共感」はその相手と関わる上で「いかに相手と生活上重なる部分があるか」によって決定される。この点に限れば、多種多彩な経験を積んだ人はただそれだけで「共感能力が高い」と言えるだろう。

②能力としての共感
これは、いかに「相手の身になったつもり」になれるかという「イメージする能力」と置き換えてもいいかもしれない。男性であっても、生理痛の苦しみを、以前生じた腹痛の苦しみに置き換えて辛さを体験しようとする、というように、生活上重ならない部分があっても、その人のイメージ力で補うことによって「重ねたつもり」になることはできる。この能力はトレーニングによって養われるものであるが、当然「基礎としての共感」としてあらかじめ経験を多く積んだ者は、イメージを作り出す上での「材料」も豊富にあるのだから、何も経験がない者よりは「能力が高い」傾向はあるだろう。

③姿勢としての共感
これは「治療者(聞き手)」がどれだけ「患者さん(話し手)」の語る世界に「一緒にいる雰囲気」を作り出しているかという姿勢を表す。②が治療者(聞き手)自身がイメージする能力であるのに対し、③は治療者(聞き手)が患者さん(話し手)に「私はあなたの話す世界を、一緒に体験していますよ」という「幻想を抱かせる能力」と表現することが出来る。「その時は他に誰かいたの?」「天気はどうだった?」というような、話し手の世界を少しでも「体験しよう」という姿勢を感じさせる問いは、②の精度が高まることに加え③の要素も満たすため、良質な問いである。(しかし、その問いが聞き手の好奇心や覗き見根性から生じたものではないことを確認する必要はあるが)

③の大切さを示すためには、逆に「幻想を消滅させる例」を挙げるとわかりやすいだろう。最愛の人を亡くした辛さを語っている話し手に対し「そうだね」「辛いよね」と頷きながら話を聞いていた聞き手が突然「ところで○○ちゃん元気?」と、話題に上がっていた張本人のことを尋ねたとしたら、話し手は「今まで話をしていたのは何だったの!?」と怒りを抱くことになるだろう。

「幻想を抱かせる能力」は①②が相補的に働くことが多いが、逆に①②の能力が高すぎる故に「一緒にいること」が辛くなり「いくら嘆いたって亡くなった人が戻ってくるわけじゃないんだからさ」「早く、別の人を探しちゃいなよ」といったアドバイスをしてしまう人も多い。当然アドバイスを受けた側はその時点で「それが出来れば苦労しないんだよ!」となり、「一緒にいる雰囲気」は消滅してしまう。①②の能力が高かったとしても③の共感能力が高いとは限らないのである。①②の共感を維持しつつ、辛抱強く「治そうとするな、わかろうとせよ」という姿勢で接するのが③の要点である。

④治療的変化としての共感
精神療法の専門家には、この状況のみを「共感」とみなしている人もいる。この共感は治療者(聞き手)が①②③すべての共感的態度を駆使しても、どうしても患者さん(話し手)のことを「わからない」と感じる状況のなか、治療者が患者さんに投げかけた質問の答えによって、治療者が今まで患者さんに抱いていた先入観・偏見が崩れ、以前よりもより深く患者さんのことを理解できた、と感じられる瞬間を表す。治療者はジグソーパズルのピースがピタッと当てはまるかのように患者さんを「わかった」と感じ、同時に患者さんは「伝わった」という実感を得るのである。

むかしこのようなクイズがあった。ある高層マンションの20階に住む住人は、地上から20階の部屋に戻る際、必ずエレベーター周辺をキョロキョロと見渡し、誰もいないことを確認すると階段を駆け上って20階へ向かうが、20階から地上に降りる際は周囲に人がいることを確認することなく、エレベーターを使って下に降りる。さて、どうしてでしょう。という問題である。答えは「その住人はまだ小さい子どもだったから」。エレベーターのボタンが一番低いところにある『1階』にしか手が届かず、降りるときは一人でボタンが押せるものの、昇る時はボタンを押してもらえそうな大人が来ることを確認し、居なければ仕方なく階段を上るしかないから。という解説だったように思う。「高層マンションの20階に住む住人」という設定からすぐに「小さい子ども」を想像することは難しい。そこまで極端ではないかもしれないが、「わかろうとする」姿勢を保ち続けていると、逆に「自分と患者さんは違う存在」であることを忘れてしまいがちである。

「自分の経験(①)、想像力(②)から相手をわかろうとする雰囲気を保ちつつ(③)、それでも自分の先入観から、相手のことをわからないところは必ずあるはずだから、そのような自分の先入観・偏見が崩れ、相手を深く理解する瞬間がいつ起きても良いように話を聞こうとする姿勢(④)」が、厳密な「共感的態度」なのである。それを考えると方法論もなく、ただ「共感しなさい」というのみの指導ではあまりにも不親切であろうという点については、皆さんからも「共感」が得られるのではないかと思う。
by nakaizumi-mc | 2017-02-01 17:56 | お気に入りエッセイ
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